井上 誠 Ⅰ

P10109301 パソコンルームを掃除していると、埃をかかぶった本が沢山出てきた。

パソコンの解説書、釣りの月刊誌、経営指南書、などにまじって、懐かしい本が出てきた。

井上 誠・・・・ 懐かしい著者に目が止まる。

思わず手にとって、ページをめくった。

「コーヒー入門  社会思想社 1980年9月30日 初版第38刷発行」 

もう30年も前だ。発行の年はまだサラリーマンで、コーヒーにはまったく疎遠だったから、

僕が手にしたのはおそらく、82年に3k釜を買って焙煎を始めた頃だろう。

81年に名古屋鉄道・河和駅に鉄道系列の量販店が出店することになり、駅舎も全面改築されることになった。

これをきっかけとして、以前から駅構内で駅売店と喫茶店を経営している家業を、僕が引き継ぐことになった。

ズブのど素人から喫茶を始め、溢れるお客様に右往左往しながら、無休で朝から晩まで働きまくった。当時70Kg近くあった体重は一年もたたずに60kgを割り込んでいた。

1年ほど経って、所詮、喫茶業は貸席業と悟る。

割り切って、貸席業に邁進していれば、今頃は漫画やメイド、ネットカフェのオーナーで鼻息が荒いかもしれない。

しかし、まかり間違って、コーヒーの世界にのめりこんでしまった。

当時は、コーヒー専門店ブームの末期。喫茶店も飽和状態で、新たな形態が模索されはじめ、自家焙煎も注目されだした時代だ。

勿論、凝性の僕はこの道を選んだ。

P10109601 生豆や焙煎機を入手するルートもなく、店の卸し元の焙煎業者に頼み込んで、焙煎機と生豆を入手した。

その頃は、専門書も少なく、この故井上先生の著書が僕にとってバイブルだった。

喫茶店を始めて、最初にコーヒーの抽出に興味もった僕は、先生の抽出理論にたちまち虜になった。

この入門書は一応、コーヒー全般の解説書の体をなしているが、特に抽出の項目は秀逸で、先生の戦前、戦中のコーヒーエキス抽出の実践に裏打ちされた抽出理論が具体的に解説されている。

今読んでみても、コーヒーの抽出はけっして難解なものではなく、そのコツさえ理解すれば、容易にその美味しさを手にすることができることを、切々と説く姿は感銘を覚える。

肝心な焙煎は、情報が全くなく、独学で始めるしかなかった。

焙煎業者に弟子入りして、実践で学ぶのがこの世界では常道で、さもなければ独学しかない。

閉店後、自宅のガレージに備え付けた3K釜で黙々と焙煎した。

詳しくは憶えていないが、この頃を前後して、柴田書店の月刊誌「喫茶店経営」に、銀座のS氏が全国の自家焙煎店を行脚する企画が連載された。

焙煎に関しての情報に飢えていた僕にとっては、この企画はまさに渇望していたもので、毎月の連載を穴が開くほど読んだ記憶がある。

毎月、特長的な焙煎を試みる店が事前にセレクトされていて、その店にS氏が訪れて、焙煎ノウハウを氏が評論する形を取っていた。

この連載では、S氏の焙煎ノウハウは詳しく公開されなかったが、投入時にダンパーを閉めて、蒸れてからダンパーを開放する方法は首尾一貫して主張されていた。いわゆるこの”蒸らしダンパー”が、たちまち全国の自家焙煎店を席巻してしうほど、氏の影響力は絶大だった。

あまりにも情報の少なさに、全国の自家焙煎店は情報に飢えていたことを物語る。

S氏の焙煎ノウハウは後に、M氏の”L伝説記”で要約されることになるが、意図的なものがあるのか、その要領が明確につかめなかった記憶がある。独特な文体もあって、余計にその思いが強かった。

何回目かの連載に、名古屋・島田橋の牧氏が紹介された。当時牧氏は富士の遠赤外線併用の焙煎機を使用していて、S氏と遠赤外線バーナーの効用について、激論している。

S氏はそのなかで「遠赤外バーナーについては、過去にすでに論議を尽くした。」と語っており、当時でもかなり以前から、その存在は議論の的であったらしい。

P10109981  早速、自分の焙煎した豆を持参して、牧氏のもとへ馳せ参じたことは言うまでもない。

自分の休日のたびにおしかけては、営業中のカウンターを独占して、焙煎談議に花を咲かせた。

牧氏によって遠赤外線焙煎機の考案者の故襟立氏、そして吉祥寺のもかや岡山の倉敷珈琲館、その他多くの自家焙煎店の存在を知る

当時の飲食業関連の出版業界は、柴田書店がS氏を、旭屋出版がSi氏をそれぞれのコーヒー部門のイメージ塔としてたてた。

共に大手業界誌出版社が、両氏を押し立てて、発行部数を争ったわけだが、両氏もこのことによって、コーヒー業界の第一人者としての地位を不動のものとした。

その後、柴田書店はS氏からT氏へシリーズ連載をシフトし、旭屋出版はSi氏のヨーロッパ訪問記を連載する。

話は故井上先生の書物から、ずいぶんとそれてしまったが、実は、この両氏は偶然にも、故井上先生と深く関わっていたことはあまり知られていない。

S氏は戦前から井上先生のコーヒーエキス抽出を手伝っていたこともあって、昭和24年に店舗を開店するにあたって、折に帰京していた先生から直接、エキス抽出のドリップ方法と焙煎の指導を受けている。

自家焙煎、デミタス、ネルドリップの“コーヒーだけの店”はいわば先生のコーヒーをそのまま具現化したもので、当時としては革新であった。

その後、先生は執筆活動に専念され、時代は過ぎる。そして、いつごろからかSi氏の店に客として訪れるようになる。その辺の経緯は推測だけで詳しくはわからないが、老いてもなおコーヒーに興味が尽きない先生と、つねにコーヒーに対する真摯なSi氏との出会いも偶然ではないような気がする。

Si氏のエキス抽出への試行錯誤はこの頃から始まる。店主と客の関係は、当然、抽出や焙煎の師弟関係へ発展した。それは想像するまでもない。

P10109311 この業界に在って、当時の心有る人や組織には、先生の足跡が必ずうかがえるが、そのことはあまり表には出てこない。

先生はけっして表には出ず、裏方のコーヒーの現場で、コーヒーの実践を説いた。

コーヒーと向かい合い、悩める者が先生を仰ぎ、先生はそれに応えた。そこにはいつもコーヒーの真実の姿があり、先生はそれを説いただけだ。

戦後の全く不安な状況のなかで、安定した公僕としての職業を、自らの潔さで棄て、何の計画もなく東京に戻った先生の心に、ふと、迫るようにかかり始めたのは、コーヒーそのものの復活の声であったという。

全土の焼跡に早くもコーヒー店のバラックが立ち始めたのを目のあたりにして、

「そうだ。渾沌としているその正体を、出して見せるのは私の責任ではないか」

その悟りにも似た決意に、他の事を顧みなくさせた。と先生は自著で独白している。

そして、戦後のめざましい高度成長と共に、コーヒー業界も復興し、経済成長の恩恵を受ける。特に、先生の具現化したコーヒーを、素直に引き継いだ者は、その恩恵を最大限に受け取った。

しかし、豊かさは人を盲目にする。

受けた取った恩恵を自らのものと錯覚し、それをより多くの人々や社会に還元する責務を忘却させてしまう。そういう意味で、この業界は罪の重い人は多い。

S氏やSi氏のイメージは、いわば頑固であり、職人であり、秘密主義であり、孤高であっる。彼らに憧れ、師として仰いでこの世界に入った若人は多い。差し迫った事情で入ったわけではなく、やはり憧れが多かったと思う。

その憧れは消費者の憧れの延長線上にあるが、そこには必ずコーヒーの真実があり、学ぶ世界があるという錯覚があった。

しかしそこには、故井上先生を超えて、もっとコーヒーの真実にいたろうとする探求心は失せていた。業界全体も同様である。先生のコーヒーを所与とし、いたずらにその模倣と形式だけが王道となってしまっていた。

そして、両氏が広告塔として、イメージとしてのコーヒーを思う存分に膨らませた。そうすれば、そうするほど簡単に、労せずに、豊かさをもっと多く享受できるからだ。輸入商社までがそれに便乗した。

受け取った恩恵を、業界全体が貪った。

僕が、スペシャルティの世界に入って、欧米と我国との圧倒的な格差を痛切に感じたとき、この原因を何処に求めてよいか思い至らず戸惑ったが、今こうして過去を振り返ると、その原因が見えてくる。

豊かさは人を不作為に陥れる。

P10109261 日本の業界が、イメージとしてのコーヒーを膨らせ、豊かさを貪っている中、アメリカのコーヒー業界は消費減退に悩み、新しい模索を始めていた。

消費低迷の原因を素直に、自分たちのコーヒーの品質にあると認め、品質の向上に彼らの努力は始まっていた。

そして、その努力は、生産国にまで及ぶ。

一杯のコーヒーの品質は焙煎、抽出だけではなく、その原材料の生豆の品質が大いに影響する。

素材の良し悪しがその製品の良し悪しを大きく左右する。

あたり前のことだが、彼らはそれを痛烈に認識し、良質な素材を求め産地に赴いた。無ければ、産地と共に素材を作り始めた。

カップ評価の新しい基準を作り、それを彼らの仲間と、産地の仲間との共通の言語とし、その言語で素材を評価し、求める良質な素材の共通認識を作る作業も厭わなかった。

そして出来上がった良質な素材の、その素晴らしさをひきだす術は、収穫から精製、そして焙煎に至るまでが短時間・短期間でなされなければならないことも認識される。

収穫されてまもない、そして良質がゆえに高地の硬い素材を焙煎する術も、彼らは克服していった。

衰退の危機感と競争原理は、かくも人を駆り立て、豊かさは、かくも人を堕落させる。

過去の歴史に学ぶ時に、いつも出てくるこの類の教訓は、今回の日米のコーヒー業界を振り返った場合も、やはり当てはまり、納得してしまう。

コーヒーの品質に限らず、多くのプロダクツの品質は、ときとして社会的構造が障壁となって、その品質向上を阻む。

故に、更なる品質向上は社会的構造を取り除くか、改善することによって可能となる。

しかし、その行動は、リスクと犠牲をはらむ。

危機感に駆られそれを断行するか、豊かさが故に不作為にするかの違いである。

それは、人の性分であり、万人の共通である。

そうであっても、豊かさに溺れず、更なる品質の向上をめざし、欧米に旅立ち、産地に赴いた者たちも日本の業界にいた。

不作為をよしとせず、流通の障壁を乗り越えないと、品質の向上はありえないと認識し、決意した。

それは、わが国のスペシャルティコーヒーが緒に付く原点であった。

―――機が熟し、状況が許されたら、このところを、具体的に述べてみたい。