同じ町内の、御年90歳近くのご夫婦が手塩にかけたもので、ご夫婦のお孫さんのよしみで購入させて頂いた。
あまりの美味しさに驚いた。
家内のいい加減な米砥ぎと、ちょっと旧式な炊飯器にもかかわらず、圧倒的な光り輝く艶と香り、粘りと甘さ、そして一瞬に消えていくアフターのよさは筆舌に尽くしがたい。
昨日家内の実家から頂いた,なすやきゅうりの一夜漬けと、かぼちゃの味噌汁で、あっという間に3善が腹に収まってしまった。
米と野菜が絶妙に、お互いに相手を引きたさせる。
天賦の恵みに思わず感謝する。
この新米はご夫婦曰く・・・あたり前の作業を淡々とこなしただけ。・・・と謙遜なさっていたが、昔からの手順を、じつに丁寧に踏んだものだった。
そもそも、自分たちと娘家族が食べる分を確保して、余剰のものを売るという状況だからこそ、こうした米作りが可能である。農産物として販売目的であれば、生産効率が優先され、昔ながらの作業工程は省かれる。
その工程の最終作業段階での極めつけは、刈り取った稲穂を、木製の物干しにかけて天日干しにする“はざ架け(稲架)”だ。
刈り取られた稲穂はまだ数日は生きているといわれる。そして架けられた稲は葉や茎から養分を米粒に送り続ける。
生産効率からいっきにコンバインで脱穀して、電気乾燥され、サイロに貯蔵されたものより格段に旨い。
米の収穫・精製工程はコーヒーと比較すれば、多くの類似点が有ると思う。
例えば、はざ架けはコーヒーのアフリカンベッドと同じだ。
パーチメントを乾燥させる工程で、コーヒーの品質向上に飛躍的に寄与したのはアフリカンベッドであったといわれる。ウオッシュドだけでなく、ナチュラルやパルプドナチュラルにも適応され、やはり品質の向上に大きく寄与している。
洋の東西を問わず、作り手たちのきめ細かな配慮が、同じような処理工程にたどりついた。
天賦の恵は、受け取る我々の姿勢しだいで、多くもなり少なくもなるということかもしれない。
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丁度、これからカッピングということで、僕も参加させていただいた。
農園の同じロットを今日焙煎したものと数日前の焙煎したものを比較する。
今日は中点を変化させ、仕上げも温度を高めにして、これからの秋バージョンを試したということであった。
仕上げの進行は適正でないと、カップが歪む。
仕上げの温度が高めだった結果、やはりマウスフィールが悪くなっている。
それらのカッピンググラスの他に、数種のカッピンググラスが有った。液体の色がやや淡く薄い。もしかしたら、これが車中で聞いていたジョージ・ハウエルのコーヒーか?
「それがジョージ・ハウエルのコーヒーです。コスタリカとグアテマラ・・・・・」僕の目線を感じたSさんが、素早く反応した。
息を凝らし、カッピングスプーンに液体を満たす。
そっと口の注ぐ。
もう冷めていて、フレーバーの特性を捉えにくいため、強く吸い込まないことを意識して、口に注いだのはない。無意識のうちに、甘さととか、マウスフィール、ストラクチャ―、アフターを求めていた。
酸を包み込む甘さが舌に滑らかに絡む、フレバーが鼻腔にゆっくりと抜けていく。そして心地よい甘さでフィニッシュする。
以前、恩師が最近のジョージ・ハウエルのコーヒーを絶賛していたことを思い出す。
Sさんのコーヒーはもちろん、11分ちょいの短時間焙煎であり、完成度はそれなりに高いと思う。
ジョージ・ハウエルの焙煎はどうか?
カップから短時間焙煎とは全く次元が異なることが伝わってくる。
両者のカップを繰り返す。
そうだ。そうなんだ!
やっぱりいいんだ!これでいいんだ!
これは、まさに自分が毎朝のカッピングで経験していることではないか。
「短時間焙煎」か、「恩師のメソド」かの結論がいまだ出せず、どちらの方法も繰り返し焙煎しているため、毎朝のカッピングはどちらか一方だけのカッピングはまれで、両者を必然的に比較する結果になっている。
多くの仲間が「恩師のメソド」から、「短時間焙煎」に傾倒している中、自分だけが「恩師のメソド」にこだわり続けるのを、はっきりとカッピング用語で、仲間たちに主張することが出来ないもどかしさがあった。
自分の「恩師のメソド」によるコーヒーは、ジョージ・ハウエルのと大枠で似ているのではないか!
もちろん、洗練されたクリーンさ、酸・甘さ・テロワールの表現には、まだまだ劣るが、ニュアンスは一緒なのだ。
―酸を包み込む甘さが重層的で、ボディを実感する―
比較を繰り返すと、はっきり短時間焙煎の欠点が見えてくる。
酸、甘さ、滑らかさ、の立体的な表現において、短時間焙煎は明らかに落ちる。単にフラットで、ストラクチャにかけるのだ。
短時間焙煎のフラットが単にクリーンを強調しているだけのこと、そしてテロワールを正しく表現していないことを、ジョージ・ハウエルのコーヒーは雄弁に語りかけてくる。
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フラットとドライが同義語ならば、まさにビールや酒、焼酎、ワイン、ウイスキーなどのアルコール飲料において、ドライとうたったものはほとんどフラットと表現してもいいと思う。
クリーンでスカッとしていても、盃を重ねるごとにすぐにあきがくる。それらはそれぞれの分野での本分を極めているのではなく、技術的に妥協しているに過ぎない。
消費者がそれを求めているならば、それはそれとしてプロダクツとしての意義はあると思うが、スペシャルティコーヒーはそれでいいのだろうか?
―テロワールの真髄を真正面から表現するとこうなんだよ―とジョージ・ハウエルからのアンチテーゼが突きつけられた感じがした。
そして、僕の背中をグッと押してくれた。